昭和五十六年十二月二十日 朝の御理解


御神訓
「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」


 真心の道という事、ここで真心(マゴコロ)の道とあります。只、神様やら仏様を拝んでおります。信仰しておりますという程度ではないという事がわかります。只、一般で言うあの人はなかなかの信心厚い人だというその信心とは違う。どこまでも真心の道なのです、信心ね。ですから、この真心の道というのは又きりがない、限りがないのです。
 今日、私は頂こうと思うたらこの教典の余白の所をこう頂いた。だからもう一枚はぐらして頂いたら又白紙ですね。お話のしようがないからお願いさせて頂いたら、この教典の一番最後ん所のいわゆる「真心の道を迷わず失わず…」という所でした、ね。ですから、それを教える事も伝える事も自分が頂かずしておいて、又は信心の教えによる生き方によるまあ合楽で言う実験実証ですね。かくおかげが受けられる人間の本当の幸福というのは、信心がなからなければ頂けない。しかも、この信心というのは、あの世にも持っていけれるこの世にも残しておけれるというほどしのものでなからなければない。それはいわゆる真心のものでなからなければ。信心というても、いわゆる真心の内容でなからなければ伝わる事もないし又はおかげを伝える事も出来ない。
 これは私いつも思うんですけれども真の信心、真の信心とこう金光教の信心が真の信心という事ではなくて、お互いが頂いておるおかげがね、真のおかげであるならばそれは真の信心というていいでしょう。しかもその真の信心というのはいわゆる今日ありますように真心と真心とこういわれるのですから。真心の道をいよいよ極めに極め、本当なものにしていかなければ子にも孫にも伝わらない。真心の道をいよいよ極めていかなければならない。
 今日、私は起きがけに布団の中で御祈念をするのですけれども、“攻めの信心”という事を頂いたんです。あの攻めるというでしょう。人を責めるじゃなくてね、あの攻略するというね。戦争でもやはり守るという事と攻めるという事とあるでしょう、ね。いうならば結局攻めるも守るもやはり真心じゃなからなきゃならない。信心じゃなからなきゃならないというね。その信心にもやはりそういう二つのひとつの傾倒というかね、守る攻めると。
 私が御大祭からこっち二、三日説いてきたお話やらを聞いて下さると大体、あれが守る守備の信心だなあというふうに思います。自分というものをギリギリ掘り下げてみるという事ね。自分、いうならば守るという信心はそうだと思うですね。こういうような災難もまちうけとるぞといったようなその感じがいたしましたら、いよいよ自分という者を謙虚にして、そしてどういう事が起こってきてもそれをドッコイ!!とこう受け止めれる心の内容というものを作っておくと、これは守備守る信心だと思うね。
 今日、私が頂きますのはこの攻めるという事。いうならば積極的に信心を。だからどうしても力がいる貯えがいる。例えば、ふんならここ二、三日私が貯えた、まあいうならば信心によってそれを今度は内に掘り下げるんじゃなくてそれを外へ出していくというね、まあいうならば信心をいわゆる高度なものに高めていくという事、ね。
 だから、信心にはこの深めるという事と高めるという事がやっぱいると思うですね。いわゆる、それをまあ今日は神様はいうならば攻める、いうならば攻めるも守るもという事である。そしてそれは真心である、ね。真心で思わないと自分という者も見極める事が出来ませんし、どんなに鏡を立てても真の姿が映らない、ね。そして自分という者が、いうならば深める豊かにその力を持って今度は攻めるほうのね、まあこれは色々にわからせて頂かなきゃならんけれども、今日の御理解を頂いておるといよいよ真心の道を高める又は深めるという、今日高めるという事はどういう事だろうかと。
 昨日、久富繁雄さんの所の娘さんが田主丸に嫁行っとります。この頃から主人が事故で骨折して一、二ヵ月位静養しとられたでしょうか、それでカズエさんといいますが、まあ一生懸命お参りをしてきた。大変おかげを、同じ程度のまあ怪我で二ヵ月でもう二人とも退院でけるといわれておったのがあちらは一ヵ月で退院がでけるようになったと、そいで横ぞの人が私とあんたは一応なまあいうならば、怪我でまあおそらく一緒に退院でけるだろうと先生が言いごさったつに、あなたがまあだ二ヵ月ち言いござったつが一ヵ月で出られるち言うどうしてやろかち言うてそのまあ不思議がられたち。したらその節、繁雄さんがベットをこうはぐってこれがあるけん私げな違うち言うたげな。御神米がそこに入れてあった。ほうそんなら私もどうでんこうでん御神米をいっちょもろうて来てくれんのというお届けがあって、御神米を持って行ってあげられたというようにですね。
 そういう事があってもうおかげは頂いてもういよいよおかげ頂いたという御礼参拝をして帰りに今度は自分自身が事故を起こした。ね、御参りをさせて頂いてね、そしておかげを頂いて御礼参拝をさしてもろうて帰り道に、独り相撲でどっか電柱か壁にぶっつけて車はやっぱもう全然使えんごとなったそうですけども、おかげでまあかすり傷ひとつしとらなかった。何かまあむち打ち的なあれがあったから何日間かやっぱ病院に通うたでしょうか。
 そして昨日の御礼のお届けであった。というのは、その昨日の朝お夢を頂かれた。そいが先生おもしろいお夢で気持ち悪いお夢でしたとこういう。どういう夢だったかと聞いたら、大きな蛇がおったからそれを料理して食べたち、そしたらそのそん蛇の子供がはらかいて復讐に来るというようなお夢であったち言うのです。皆さんどういうふうに思われますか。
 真の道を極めていくというその内容にね。ただ今のような所があるのです。ね、怪我をした。一生懸命お願いをした。おかげを頂いた。それもおかげ頂いてはっきりおかげをなら人の倍早い速さでおかげを頂いた。アーヤレ有難やと言うて御礼参拝をしたその帰り道に又、自分が事故起こしたと、ね。そしたら、例えば御礼参拝せにゃよかった。お参りせにゃよかったというような所もあるけれども、いわゆる真の信心させて下さるための神様の様々な手の込んだ御演出であるという事をお夢の中にお知らせ下さっておる、ね。
 蛇のお知らせはここではめぐりと言われます、ね。そういうめぐりおかげを、痛い思いをせなければならん苦しい思いをしなければならない元は元があるのだけれども、どうしてこういう難儀が、な事になるのであろうかと言うたらもう信心はとどまっておると。これはまあだ信心が足りんのだと思うて、そこから信心をすすめていけばそこからおかげが受けられると、ね。
 めぐりを向こうに追い払うのではなくて、そのめぐりそのものを頂くという事なんだ、ね。言うならめぐり様様である。おかげで信心が出来ましたという事である。おかげで一ヵ月なら一ヵ月日参りが出けましたという事である。ね、そのおかげで出来ましたのだからもうそれで言うならばいよいよおかげおかげという感じですけれども、その御礼参拝の帰りに今度は自分が事故を起こした、ね。めぐりを確かに頂いておかげで信心が出けましたと思うておったけれども又、言うならばそのめぐりの子供がはらかいてしかけて来たとこうういうような所がね、言うならば、芯から根からのめぐりのお取り払いを下さろうとする演出であり働きである事を感じますね。 だから、どんなに限りなくそのめぐりが出てきてもそれを迎え撃つだけの信心ね。その迎え撃つ間がいよいよ自分という者を極め、自分という者を深めていくというここ二、三日の御理解のような所を通らせてもろうてね、その貯えがでけた所から、言うなら借金払いがでけてしもうた所から今だ貯めていく信心。これが私は攻めていく信心だと思うです。いかに貯めたい貯めたいと思うても、借金があればそれは貯めた事になりません。まずは借金払いをせなきゃいかん。もうこれだけ払うたと思ったらまあだ利子が残っとった。又払わなんならんと思わずにそれだけ言うなら根からコンからのおかげを頂きよると思うて、いうならば、井戸は清水になるまでと仰せられる、病気災難は根の切れるまでと。
 だから、例えばお父さんが一人で災難におうとったら命にかかわるような事になっとったかもわからない。それをおかげ頂かれてまあ一ヵ月でおかげ頂いた。おかげ頂いただけに今度は自分がそういう事故を起こした。神様は、まあいうなら日頃の信心の徳によって又は親の信心の徳によって、いうならば一辺に受けなければならない災難を二つに分けて頂いたというふうにも頂けるわけです。それをなら、お夢に表れて来ておる。いうならその蛇を食べた。又、その蛇が追い掛けてきたといったようなそのお夢の中からそう感じずに、れるいやそれを信じれる為の神様の働きを受けておるしか言えません、ね。
 それこそ、歌の文句じゃないですけれども、
守るも攻めるも黒金の、とこういうわけ。信心もやっぱりそうです。守るも攻めるもいうならば黒金である。黒金という事は、私は修行という事だと思うです。修行の内容が自分を極めていこう、自分という者を深めていく手立て、自分という者がいよいよ深められていく、ね。な、深められただけではいけん。今だその貯えられた力によって又、攻めていくというひとつの勢いもいる、ね。
 その馬田さんというんですけれども、その馬田さん一家の上におきておるそれはいうならばめぐりのお取り払いからめぐりのお取り払いを頂いて、いうなら借金払いをさせてもらう時にいよいよ信心を深めていくおかげを頂きね、このお取り払いが頂けた時、今度はもうこれで信心はやめるというのじゃなくて、そこから例えば一ヵ月なら一ヵ月お参りをさせて頂いているうちに、おかげ頂いただけでなくて信心をわからせてもろうた。そのわかった信心をもって今度は攻めていく信心。願いの信心からお礼の信心というようにです変わってくる。お願い参りからお礼参拝が続けられるような信心から、いやが上にも信心は高められていく事だ。
 しかも、そのめざす焦点というのはどこまでも真心である。真心である。真心の信心。これはまた際まりがないと。まあ、私は今日白紙から白紙をこうやって頂いたようにね、もう限りがないのです、ね。限りがないほどの信心ですからこそ限りのないおかげにもつながっていく事が出ける。限りない世界にも又、その信心をもって行く事が出けるという事にもなるのじゃないでしょうかね。まあ信心しておかげを頂くと。成程、まあ打てば響くようにいわゆるおかげを受けるという信心の所から、いわゆる今日の御理解はこの方の信心は真心のとこう例えばいうわけですね。
 真心の道を迷わず失わず末の末までも教え伝えられるというのは、お参りをしておかげ頂いたといったような程度の信心から、いよいよ信心を深めていくね又は高めていく、しかも真心(シンジン)真心(マゴコロ)の信心を芯にしての極めていくという生き方、必ず難儀なというそこから逃れたい逃れたいだけの信心じゃなくてね。そういう時にいよいよ深める信心。どうしてこげな痛い思いをせなければならんのかと。どうしてこげな苦しい思いをしなければならんのかというそこん所を極めていこうとする姿勢がいるですね。
 只、苦しいから助けて下さいというだけでは信心が深まりませんね。そしていうならば色々今までわからなかった所がわからしてもらい、そういう貯えた力をもって、いうならば今度は攻める方の信心にすすんでいく。いうならば積極的な信心にすすんでいく、ね。そういう私はお道の信心の内容というものを只お参りをしておかげを頂いただけの簡単なものではなくて、どこまでも信心の道は真心の道であるということ。しかもその真心の道を二つに分けると攻めると守るという信心になる。
 いうならば、めぐりのお取り払いを頂いて、そしてそこからおかげをお徳を受けていくという信心、ね。自分をいよいよ深める、自分をいよいよ高める信心をめざさして頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。